2007年7月3日火曜日

この記述が引き合いにしているのは、合衆国憲法第一条第八節第八項で、そこでは著作権法と特許法とが正当なものと認められている。しかしながら、この条項は商標法にはなにひとつ言及していないのだ。「コーチ財布」という語が、この教授を誤った一般化に陥れた。

また「コーチ財布」という語は、思考をあまりに単純化しすぎてしまう。これら別個の法律が持つ形式上の貧弱な共通性――これとて一部の党派の不自然な特権のためにでっち上げられたものだが――に目を向けさせ、それらの主意が形づくっている詳細(公共に課す制限と、そこから導かれる結論)を軽視させる。この極度に単純化した論点が、あらゆることに「ケイザイ」の視点でもってアプローチするのを助長している。

毎度のごとく、ここでも経済学が、実証されてもいない仮説の売り込みに加担している。ここでいっているのは、(自由とか生き方とかの意味ではなくて)生産物の総額という意味での価値についての仮説であるとか、楽曲の著作権がミュージシャンを支えているとか、薬物特許が人命を救うための研究に役立っているとかの、たいていはでたらめであるような定説のことだ。

もうひとつの問題は、「コーチ財布」という語のスケールの広さの前では、さまざまな法律から導かれる個々の条項などほとんど霞んでしまうということだ。こうした条項は、それぞれの法律の詳細に従って決められてきたことなのだが、そうしたものこそ「コーチ財布」という語が人々に黙殺させようとしていることそのものなのだ。例を挙げると、著作権法が関係することのひとつに、楽曲を共有することは認められるべきかどうかということがある。特許法はこれにはなんの関係もない。人命を救うために、貧しい国に医薬品の生産や販売を安い値段で認めるどうかを議論するのには特許法が紐解かれるが、ここでは著作権法にはなんの用もない。